自分のこと(1)

about me

生まれてから20歳まで和歌山で育つ

高校卒業の進路で、なんとなく英語を勉強したいと思い大阪の専門学校へ見学に行った。

入学には試験があって私はその準備を進めていたけど受験当日高熱を出し受験できず、学校側からフォローの電話があったけど(専門学校だからね)、なぜかその学校への入学意欲がなくなった。結局、地元のコンピュータ系のビジネス専門学校に行くことになり、そこで2年間勉強した。

私は経理課に入学。経理課だけどプログラミングの勉強も授業にはあったけどメインは簿記。

そこで簿記2級の資格を取得する。

2級の試験前にも風邪か何かで数日寝込んでしまい、先生は合格は半ばあきらめていたらしいけどなんとかギリで合格できた(^-^;

就職活動をする時、和歌山での就職は考えおらず大阪か神戸に行こうと思っていたのでそのことを先生に話すと、「どうせなら東京行って来いよ」と言われた時に、なぜかものすごくしっくり来たのを覚えてる。そこから就活は東京の会社ばかり受けに行っていた。

この頃は(今もそうなのかな(^-^;)、地方から来た人に対しては交通費をほぼ全額会社側が負担してくれてることが多かったけど、たまに片道分しかなかったりもしたかな。。

なんとか合格した会社には寮があったので親もそんなに心配することなく送り出してくれた。

東京へ

入社した会社では、会社設立後7年目に入った新入社員だったので私たちは7期と呼ばれた。

配属希望は経理部だったけどSEとしてライン部門に配属される。そこではCOBOLという言語を使った汎用機のシステムを開発・運用していた。一応学校でもCOBOLは勉強していたのでなんとかこなしていたけれど数年後に挫折する(-_-)

上京して数年を過ごした女子寮には、同期が7人いたので学生気分がまだ抜けきらない状態で誰かの部屋に集まったりして楽しく過ごすも通勤時間は1時間半かかるし、痴漢に合うし、一旦入ったら身動きが全く取れないぎゅーーぎゅーーの満員電車で結構ストレスもあった。

そんなこんなで28年間をその会社で過ごすわけだけど、その間に私が所属していた部署は拠点ビルを4回も引っ越した。同じビルの違う階となるともうちょっと増える。

だいたい港区内のビルをウロウロするんだけど、東京タワーの近くのビルが多かったので、お昼休み25階の会議室から東京タワーを見ながらお弁当を食べたりしていたので、今から思えば結構贅沢な空間でランチしていたのかもしれない。ビルの前の広い歩道はよくドラマなどに使われていた。

それにしても、高層ビルで働くというのは気圧の変化に敏感な人間からするとちょっとしんどい。最初の三カ月ぐらいは頭が痛くて気分も落ち込んでいた。

三カ月を過ぎると慣れたみたいで頭痛は無くなったけど、急な天候の変化では気圧の変化も激しく体がつらくなることもあった。

そんな時にいつも頭をよぎっていたシータ(天空の城ラピュタ)の言葉。

映画の後半、ラピュタ復活をもくろむ悪役のムスカとの対峙シーンでラピュタが滅んだ理由をシータが叫ぶ。

「土から離れては生きられないのよ!」

いや、まったくもってその通りだと思います。ここは空中、、人の住む場所ではございません。早く土に帰ろう。。。じゃなくて、早く土の上に降りよう。

心の中でシータと会話していた日々を思い出す。。

でも、10年以上も高層にいると慣れちゃうけどね。。

地下のコンビニで買ったカップスープがエレベーターで上がっていく途中で”ペコッ”って膨らんだりするのもご愛敬です。

四回目の引越は神奈川県にある自社ビル。とうとう東京から出ちゃったとその時はちょっと残念な気持ちもあったけど、この自社ビルの敷地はかなり広大で体育館、ホール、テニスコート、はては野球場まである拠点だった。

たまに会社の組合が開催するヨガなどの運動イベントで体育館を使うことがあった。高校の時はバレー部だったし、体育館って普通に使えるけど大人になるとそうもいかない。久しぶりに体育館用のシューズを履いて歩く体育館は、キュッ、キュッというスキール音がやたらテンションのあがる空間になっていた。たまにそうやって体育館に行く機会があると懐かしさと開放感にしばらくひたってたなぁ。それにその拠点では月1回著名人を招いての講演会などもあった。

とにかく、最後の数年は仕事のことは置いといて大企業の恩恵を余すことなく享受した生活が続いていた(私はグループ会社だけどね)

何度目かの早期退職者募集

しかし、とうとうやってきた。前回から8年ぶり?ぐらいの早期退職者募集の通知。

しかも今回は対象人員がスタッフのみという絞り込み。

そして私はスタッフ部門所属、つまりリストラ対象人員だった。

全社的におふれが出てスタッフ部門は動き出す。

まず、上司との面談。前回は回数は定められてなかったけど、今回は最低5回は面談しろというお達しが出たらしい。上司がボヤいていた。。。「5回も何話すんだよ」って、、(私を面談する上司は、面談される側でもあるので余計大変)

とりあえず1回目の面談の頃は辞める氣が1mmも無くその旨を上司に報告。

すると「了解。じゃぁ、この会社に残って自分がどうしていきたいか、会社の為に何ができるか考えてきて」という前回には無かった宿題がでた。

え~~~~~~~~~~~~~~~まじで????

仕方ないので考えてみたけど、私はこの頃、仕事が本当にイヤでイヤでイヤで仕方がなかった。昔から同業他社よりスタッフ人員が多いとの指摘もあり、色々統廃合するも目立った改善はみられず、仕事も減ってきていたし、というか仕事自体にやりがいがなく、つまらないと感じることばかりで、今の部署にいたら、この先の人生を無駄に過ごすことになる、と感じたので異動を考えてみるも、今の自分ができることって何だろう、異動先で役に立てるかな、、、という不安の方が大きく異動したいということを上司に言い出せずに何年も過ごしていた。

かといって、転職する氣概もないから今の会社を辞めたら生活できなくなるし、もう仕事じゃなくて会社にしがみつくパターンしかないのか、、、会社の為に出来ることってなんだ???自分の為にもなる????なんてこと悶々と考えていたら、ふと頭をよぎった姫路にいる伯母のこと。。

姫路は父方の実家があるところで、子供の頃はお正月に毎年祖父母に会いに帰っていた。伯母とも仲が良く、いくつになっても活発に動く伯母のことが私は好きだった。そんな伯母も、同居していた祖父母と夫が他界し現在一人暮らし。

ふと考える。

今の会社を辞めるなら東京では暮らせない(と、何故かこの時は思い込んでいた)

和歌山の家は私が同居するスペースはないし、和歌山って仕事なさそう、、(ごめんよ和歌山)

姫路は和歌山より仕事ありそう。

姫路の伯母の家は姫路城の近くだから毎日世界遺産が見れる♪

そしてなにより伯母の家に同居できれば職探し中に一番心配な固定費である家賃が発生しない!!(これがぶっちゃけ一番の決め手!)

早速、伯母に電話で確認。伯母も高齢になってきていたので仲の良い姪っ子が来てくれるのは大歓迎という感じで即同居のOKが出た。

なにより、会社としては辞めても問題ない人員、むしろ辞めてほしい方の人員だという自覚があったので開き直ってこれをチャンスにすると決めた。

母にも会社を辞める旨を伝え、2回目(3回目だったかな?)の面談で上司に「辞めます」という報告をしたところ思いのほかびっくりされた。

「え????ほんとに?????」

「はい」

「親御さんには?」

「もう伝えました」

「そうなんだ、、、辞めるとは思ってなかった。。。」

で、しばらくの沈黙の後

「残る側もどうなるか分からないから引き留めることはできない」と言われ、え????いや、、、そんなみえみえの嘘つかなくても良いけど、、と思ったけど、昔はよく一緒に飲みに行ったりしていた上司だったので最大限の心遣いだろうなと思いなおし、

「大丈夫です」とだけ言っておいた。

というわけで、退職手続き、転職準備、引っ越し準備などであっという間に退職日。

この時、48歳になる数か月前でした。

 

 

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